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崇神天皇の皇子が参詣した宮が出雲大川の下流部と思われるから、現在で云う斐伊川下流部についてもっと詳しく知っていないと書けない。 斐伊川の歴史、特に斐伊川の流砂による沖積作用による出雲平野が影響を受けた足跡を追跡してみようと思うようになった。 よく知られている斐伊川の西流が東流に代わったのは、江戸時代の寛永年間であったという。 古墳時代と共に始まる斐伊川の砂鉄採取による下流部の堆積は、江戸時代の東流までの間に通常の場所でも2〜3m、多いところでは7〜8mはうずまっている。 斐伊川(出雲大川)は西流していたと簡単に云うが、出雲の古代史はこの堆積の中に千数百年の歴史が眠っていると思う。 私が一番知りたいと思うことは、出雲大川が西流していた時代に本流が何処を通っていたかということである。 本流の流れを確かめようとする理由として、杵築の出雲大社周辺が農業生産力や古代社会の神社信仰、巨大な神殿の建設に対応した集落が発達していたかということを確かめることにある。 先日、図書館に行って見つけた本に、出雲平野の開拓という本があった。 未解決の謎にヒントを与えてくれそうである。 この本の内容は、出雲平野の中心部、八野郷の三木与兵衛という人が江戸時代の徳川家光の頃、出雲平野の洪水による流砂でできた排水の悪い沼状態の土地を農耕地に開拓した功績を明らかにしたものである。 出雲大社の東3〜4kmのところに浜山と呼ばれる流砂によってできた松山がある。 その松山の周辺は、この本の説明によれば、排水河口はなく豪雨の時には氾濫し、たまり水は悪水と表現されるドブ沼状態であったとされる。 出雲大社と浜山との間には、現在、ブドウを中心とした農業地、住宅街に変わっているが、江戸時代には葦の原を創造させる沼地だったのである。 |
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