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古代出雲

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古代出雲
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私の古代出雲での関心事は、出雲大社の創建時代を探ること。    ここ十数年、退屈しないように次々と発掘ニュースや研究成果が発表される。   遺跡めぐり、発掘説明会、図書館で関係書の読書、講演会の聴講など古代の謎追求は退屈しない。      
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オオクニヌシ尊の墓所

2007/08/23 22:09
今日はなんでもない一枚の写真をご覧に入れよう。
この写真は島根県出雲市大津町の出雲平野南詰めに位置し、先ごろから古代史界に知られるようになった西谷墳丘墓群の一角である。

現在、この写真の中央の森の中には、三谷神社が鎮座し、近在の氏神様として信仰されている。 この森には以前から西谷墳丘墓の9号墓が存在し
2〜3年前発掘調査もされて概要も明らかに成っている。

いまこの9号墓の森をご覧頂こうと思ったのは、西谷墳丘墓群の中では最後に作られた時代の新しい四隅突出墓であること。 加えて中でも画像最大の大きさであることも問題として提起したい一因である。

出雲で生まれた人すべてに言える事だと思うが、出雲大社に祭られているオオクニヌシの神は2000年の昔、実在して活躍したであろうと信じている。

しかし、現代の古代史、社会風潮は歴史社会以前の神話で記録されてきた時代のことは信用しないし、公的に認めようとしない。

従ってオオクニヌシの墓所とタイトルに書いたが、オオクニヌシの住んでいた場所や、亡くなってから何処に葬られたかなど追求しないのである。

以前から迷信的伝承では、出雲大社の周辺を中心として西部出雲地方に言い伝えられてきた場所は数多くあるが、この時代になって考古学的裏づけのない特定地では誰も信じてくれない時代なのだ。

私の提案する三谷神社のある西谷四隅突出9号墓は、オオクニヌシの終焉の地として遺跡発掘関係者からも否定されることはないと思う。

西出雲では、弥生時代後期に四隅突出墳丘墓が築造されたが、その次の時代である前期古墳時代の4世紀前後には、この地域を支配した首長墓は発見されていないと言う。

西出雲で古墳が始めて築かれた5世紀の大寺古墳までの100余年、出雲を支配し続けてきた豪族足跡が空白状態だとされる。

古事記、日本書紀に登場するオオクニヌシも没後の後継者が西出雲を治めたという伝承はないのだから、考古学で言う創始期の古墳時代空白と一致すると思う。
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古代史勉強会

2007/07/30 23:08
年に一度の古代史勉強会。
ところは松江市の埋蔵文化財センターである。
ちょっと早めに着いたので、すぐ近くの古曽志大谷古墳に上ってみた。
この古墳は移築されているため、葺き石、埴輪などで固められ、
何処にでも上れる。
小高い丘陵上にあるため、宍道湖から吹き上げる涼しい風が心地よい。
周囲には住宅団地ができており、にぎやかだ。
この頃、時代の波でお役所さんも金がないらしく、周辺は荒れ放題。
草丈も一メートルくらいに延びている。

勉強会の会場には、遺跡出土品などの展示があり、退屈しない場所だ。
今日の出席者は7〜80人。  何時もより少ないという。
今日のテーマは出雲を支配してきた豪族に関連した研究。
僕には願ったり、かなったり。
講義は、 系図を再確認した人。  氏族の居住域の研究。
水路交通と豪族。  出雲豪族と大和王権のかかわり。
僕には聞き逃せない研究ばかりである。
氏族の居住地については、以前から資料を探していたので、今日の講義を参考に解明できそうである。
質問したいことも沢山あったが素人研究では誤解していることも
ありそうなので、質問する自信はなかった。
県外からの出席者もあり、出雲の研究は広く、深い。
専門の研究者も多いようである。
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古墳の中に入りました。

2007/07/23 22:12
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先週だっただろうか、仕事の帰り道、川向こうに見える神原神社古墳が呼んでいる。   以前見に行ったことはあったが、退屈でもあったので寄ることにした。   神原神社古墳は前期古墳で出雲地方では一番早い時期の古墳。   雲南市三刀屋町にある松本三号墳とともに同時期の古墳としてよく知られている。   見所としては竪穴式石室。   立地は大原郡と言われるように平地の真ん中のしかも川沿いに作られている。   この時代の古墳が平地の中心部にあるのは不思議だ。   私は、この古墳は1,700年くらい前の時代だから、その間、大量の土砂によって沖積されたと思っている。   数年前に、出雲市青木遺跡の現地説明会に行ったとき、四隅突出墓や神社遺構が海抜3〜5m?と思われるところにあってびっくりしたことを記憶している。   神原古墳も同じだ。  いつ水害にあってもおかしくない場所である。  この古墳は川改修のため移築され、一般見学者でも中に入って見ることができる。   古墳の上には、相撲場のような大屋根が作られており、屋根裏には写真入の解説がされていた。   竪穴の中心部は人が入れるような穴が開いており、中を覗くと下にはビールケースが置いてあり、踏み台として使われていた。   中に入ってみると薄暗く、ひんやりとしている。   石室の側面の積み石は、この近在にはないような平石が積み重ねられている。   ここから見える北側の山には、10年くらい前発見された加茂岩倉銅鐸の遺跡も近い。   石室の中にいると出雲国風土記にある神財を置いた所という感じが冷気と共に迫ってくる。     
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出雲国造家の足跡

2007/07/16 09:56

    出雲大社の祭神はオオクニヌシ神である。  創始以来祭祀を勤めてきたのは、天穂日命の末裔出雲国造家だ。  古代の出雲大社は現在の社殿の建っている杵築の地にはなかった・・・といえば批判を浴びるだろうか。
   しかし、出雲の古代研究をしている多くの者は決定的な矛盾が解決できないまま放置しているのだ。
 
問題の@ 祭祀者出雲国造家の祖、天穂日命とその後裔は松江市の南の丘陵地帯に〔大庭〕という地があるが、開祖以来八世紀までその地に住み続けていたという。
   天穂日命の年代は弥生時代の終末期。   遺跡から見ると松江市の大庭といわれる周辺には、古代の豪族が前期古墳時代に住み続けたと明らかにできる遺跡はない。
    天穂日命は天照大神の命令によって出雲国との国譲り交渉に派遣されたはずではあったが、オオクニヌシの厚遇によって出雲国の住人となることを決意したのであった。
   しかし、その後裔たちも幽閉したオオクニヌシの祭司を始祖以来80代の長きにわたり、途絶えることなく連綿として勤め続けているとしているのである。
    では国造家が大社町杵築の地に移ったとされる八世紀初頭までの約500年間、どこに住んでいただろうか?   出雲国造家文書の通りに信ずれば、大庭の地でオオクニヌシの祭司をしていたことになる。
   祭司=社殿が存在しなければ信ずることはできない。
   しかし、出雲大社の社殿が大庭つまり意宇郡内にあったという古代史学者の説は聞いたこともないし、出雲国造家も存在については否定的であろうと思う。
 意宇郡大庭の地は前期古墳時代に限って言えば、東部の荒島古墳群に匹敵するほどの勢力はなかったし、西出雲、あるいは意宇郡東部を支配下に入れていたような豪族集落、首長層の埋葬遺跡もないのである。

大庭とは、古代において神祭りが行なわれていた場所。  そのように書物で知ったのであるが、地名があるからなどと全く信用できるものではない。   いま問題にしている大庭は、六世紀に入ってからとする考え方が正しいと思う。

出雲国造家が住み始めた頃の大庭というところは、東部の仲仙寺古墳群周辺、あるいは出雲郡東部の先ごろ有名になった青木遺跡周辺だったのではと考えている。   出雲国造家がオオクニヌシの祭祀を休まず守り続けてきたのであるからその斎場である神殿と祭る人の住居は同一場所でなくてはならない。   

問題のA
今日は退屈な時間があったので図書館に行った。   安来市史によると天穂日命の墓所としての伝承地があるという。   古墳には墳丘もあるというが天穂日命の時代は出雲において墳丘は無かったと思う。   墳丘があってはならない。   言い伝だけ残っていたものを、後世において無理に目印として近いところにある古墳をあてたかもしれない。    

 もう一つ、10年くらい前、高速道路建設で発見された遺跡発掘説明見学会にでかけた。   安来市内だったと思うのだが、弥生時代から古墳時代に変わる時期の遺跡だった。   それは平地から2〜300m山裾に入った谷間に竪穴住居跡が大小合わせて10基くらい、すり鉢状に小山に囲まれていた。

   径が100mくらいの場所に集合していると生活観が感じられ感動したのを覚えている。   こんなことを書いたのは、天穂日命が出雲にきて平地より奥まった場所を与えられ、ひっそりと暮らしていたと思われたからであった。

天穂日命が出雲の地に着任して最初に受け入れてもらえた場所として、安来市の四隅突出墳丘墓のある仲仙寺古墳周辺を提案してみた。    そんなことを考えていると、天穂日命を祀る能義神社、墳丘のある埋葬地、古墳時代に入る前の遺跡をもう一度歩いて見たくなった。

国造家の移動  
使者として天穂日命が最初に出雲へ入った所として、安来市に住んだことはほぼ間違いないと思う。       このことは、昔から言われていたことで、いま私がめずらしそうに提案することではないかもしれない。

国造家の先祖が安来市の仲仙寺古墳周辺をもとに出発し、二世紀前後の時間をかけて、松江市の大庭に定着したことの証しは、仲仙寺古墳を基点とし、首長と思われる墳墓が年代を追うように西進しながら古墳を築造して行ったことが知られている。

また後期の古墳の形式として石棺式石室と言われるこの地域特有の石室の作風が国造家の足跡として推定されている。
先に、『天穂日命の時代は出雲において墳丘は無かった』などと書いたがまずかったか?
その時代まで出雲で四隅突出墳丘墓はたくさん作られていた。
その築成地は平地もあれば、山稜から延びる尾根上の先端部の見晴らしの良い所に造られていた。    これは古墳時代前期と同じといっても過言ではないと思う。
四隅突出墓にも立派な墳丘はあったのである。

言い訳はこのくらいにして、年代を経て西進しながら古墳を築造して行った国造家であったが、五世紀には入ると大和王権の出雲進出があり、前方後円墳、円墳が築造されるようになって、はたして国造家の一族は何処にいたか、確かめていない。
六世紀に入って松江市大庭町の周辺に定着したのだから、五世紀代は大和王権の勢力と国造家の力関係はどうであっただろうか。
もう少し勉強して書くことにしよう。
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遺物発見

2007/06/20 04:05
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先月の話、私の住んでいる近くに城址がある。
その史跡丘陵先端部に、5年前から荒地を整備して梅を植える話が持ち上がった。
以来、白梅、紅梅、アジサイ、サルスベリ、ナンジャモンジャなどを植えた。
ナンジャモンジャというのは白い花が咲く。
この地域では松江市にこの木があって、先年、テレビで報じられたことがあって有名になった。 

   竹や雑木に覆われていた山も、年3〜4回の草刈作業で四季を飾る花山になりつつある。    5月の日曜日、今年始めての草刈があった。
その帰り道、刈払い機をかついで足元に気をつけながら山を下りるとき、瓦の破片のような物を発見した。 

     僕は以前より山肌を切り崩したようなところを見つけると珍しい土器でもあるのでは・・・と探すのが楽しみの一つだ。      
今回も瓦の破片だ、石だと見逃してしまえば終わりであったであろう。
長さは10cm。   瞬時にこれ埴輪の破片ではないか・・・と。
すぐに埴輪の破片であろうと思ったのは、以前に全く同じような破片を採取したことがある。

古代出雲では、有名な大念寺古墳がよく知られているが、その墳丘と思われる法面から発見したものとよく似ていたからである。   埴輪の破片の土質は粘土質。赤みを帯びた辛子色は瓦の欠片か、土師器、埴輪に決まっている。    しかし、これは素人判定である。

表面をよく見ると、作成時に籾殻を周囲に使用して焼いた後が綺麗に残っている。
僕が想像しているのは、この埴輪の破片は円筒埴輪。土管を立てたような状態で古墳の周囲に立てていたと思う。    僕の発見した破片は、墳丘のある古墳の関係ではない。

出雲地方では、7世紀始めの頃、横穴と呼ばれる古墳が沢山作られていた。
発見したところの近くでは前期の古墳はあっても、中期以降の古墳は余り多く知られていない。      破片を拾った近くでは、左斜面は災害時に大きく崩れ、横穴らしき所は失われている。     右側斜面の方は当時のそのままの状態で残っている。

 ここに横穴古墳があることはほぼ間違いないであろう。    でも横穴があったとしても素人で探せばお咎めもあるであろう。    役所に行っても、そんなもの幾らでもあると、取り合ってもくれないだろうし、予算がなくて調べることもできないといわれるに決まっている。

素人考古学者の夢は、ここで終わりそうだが、遺物破片をもとに横穴古墳を発掘。 この地方の古代史空白部分が明らかとなる・・・というような夢物語を実現させてくれる時代はこないだろうか。
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崇神天皇説話の続き

2007/05/18 04:20
崇神天皇の皇子が参詣した宮が出雲大川の下流部と思われるから、現在で云う斐伊川下流部についてもっと詳しく知っていないと書けない。

斐伊川の歴史、特に斐伊川の流砂による沖積作用による出雲平野が影響を受けた足跡を追跡してみようと思うようになった。
よく知られている斐伊川の西流が東流に代わったのは、江戸時代の寛永年間であったという。

古墳時代と共に始まる斐伊川の砂鉄採取による下流部の堆積は、江戸時代の東流までの間に通常の場所でも2〜3m、多いところでは7〜8mはうずまっている。

斐伊川(出雲大川)は西流していたと簡単に云うが、出雲の古代史はこの堆積の中に千数百年の歴史が眠っていると思う。
私が一番知りたいと思うことは、出雲大川が西流していた時代に本流が何処を通っていたかということである。

本流の流れを確かめようとする理由として、杵築の出雲大社周辺が農業生産力や古代社会の神社信仰、巨大な神殿の建設に対応した集落が発達していたかということを確かめることにある。

先日、図書館に行って見つけた本に、出雲平野の開拓という本があった。
未解決の謎にヒントを与えてくれそうである。

この本の内容は、出雲平野の中心部、八野郷の三木与兵衛という人が江戸時代の徳川家光の頃、出雲平野の洪水による流砂でできた排水の悪い沼状態の土地を農耕地に開拓した功績を明らかにしたものである。

出雲大社の東3〜4kmのところに浜山と呼ばれる流砂によってできた松山がある。
その松山の周辺は、この本の説明によれば、排水河口はなく豪雨の時には氾濫し、たまり水は悪水と表現されるドブ沼状態であったとされる。
出雲大社と浜山との間には、現在、ブドウを中心とした農業地、住宅街に変わっているが、江戸時代には葦の原を創造させる沼地だったのである。
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崇神天皇60年の説話

2007/04/15 02:07
日本書紀の崇神天皇60年に云う出雲が大和王権に征伐される時、
 タケヒナテル命が天より持ってきた神宝は、出雲大神宮におさめた。
 出雲臣の遠祖、出雲振根が神宝を保持していた。
このことについて考えてみよう。

出雲大神宮が出雲の何処にあったか。出雲振根が神宝を管理していたのは何処か。 多くの解説書はあるが、この件に特定した場所を追及したものはないように思う。

先の項で書いた垂仁天皇の時代に、物言わぬホムチワケの皇子が出雲大神にお参りして帰る時、アシハラシコオつまりオオクニヌシの神の宮は河下に見える青葉の杜ではないかと言ったのだが、皇子がお参りした出雲大神は、弥生時代からこの出雲西部地方で権勢を誇っていた豪族を祭られていた神社へお参りしたのである。

出雲大神宮は、出雲大川の川下にあったのであって、杵築と言われている場所とは10数kmも距離が離れている西谷墳丘墓群のふもとであった。

杵築地方は沼常態の菱根池はあったとしても、河下に見える青葉の杜は・・というような川はなかったのだ。        出雲大社のオオクニヌシが祀られていた宮とは別に、古来の神をまつる神社があったのである。  
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古代出雲の謎を解くか・・・中村一号墳

2007/04/04 23:10
古代出雲の謎を解く・・・中村一号墳
五年前、道路工事中に発見された中村一号墳は、昨年6月の事前説明会に続いて、
先日の新聞3月24日の地方紙では、三本目の装飾太刀と二度にわたる追葬のあとが認められたと報じた。      未盗掘の古墳は、全国的にもまれであることも今回の大きな特色の一つであるようだ。

この古墳は、出雲市中心部から北を眺めると、地元で通称〔北山〕と呼ばれている東西に広がる山脈の東端にある。
奈良時代の733年に編纂された出雲国風土記では、出雲郡の東北部に位置し、出雲の古代史上、大和王権がこの地方進出後の出雲族の重要な活動基地でもあった。

@ この古墳が築造された年代は、古墳時代後期後半とされていること。      A  後期後半時代の埋葬儀礼を解明する上で貴重な史料になること。         B 出土した土器や馬具、副葬品から畿内との交流が認められる。
この3点が中村一号墳の特徴としてとして強調されている。

この古墳が作られた周辺では、五世紀代に大寺古墳が早くから認められていた。

大和王権の出雲進出の始まった五世紀には、大橋川の朝汲から佐陀に至る島根半島南岸域が天穂日命の後裔たち、大和からの覇者たちの居住基地ではあったが定着するには至らなかった。

六世紀前半まで出雲においては、古墳の築造が地域的に散発であり、出雲地方を統一するほどの首長は存在しなかった。

六世紀半ば頃から八世紀初頭まで松江市大庭町に本拠地を構え出雲東部地方の意宇の勢力とまで言われてきた国造家ではあったが、六世紀前半までは何処に本拠を持っていたか特定されていない。
いずれにしても大和からの司令官と天穂日命の後裔とは天孫系の同族であり、争いなどはなかったと思うのであるがいかがであろうか。

そして中村一号墳は出雲市の大和紡績出雲工場跡地前にある西部出雲の最大の大念寺古墳〔 古墳時代後期後半 〕と同時期と見られていることからして中村一号墳、大念寺古墳と東部意宇郡にある山代二子塚古墳の関係が後の時代の出雲地方に大きな影響をあたえたであろうことが想像できる。

出雲地方の古墳時代解釈からみれば、北側の島根半島側の研究が遅れていたように思われるし、道路が発達していなかった古代においては、半島部の水路を利用した交易は、現代社会からは想像も出来ないほどの重要なものであったであろうから、今後出雲古代史の未解決部分の問題は、美保関から西部の出雲市大社町に連なる半島南側の研究が、今後解決の糸口の一つとなるであろう。      
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趣味の楽園、古代出雲

2007/04/03 03:44
 古代出雲は、〔銅剣〕、〔銅鐸〕、〔巨大柱根〕遺跡の出土など 日本でもトップクラスの遺跡発掘が三つも続き、弥生時代終末期から古代全般にわたる出雲史の概要が明らかにされつつあります。  しかし、その反面、未解決の〔謎〕といえる部分も、よりはっきりとしてきたように思います。
 
 古代の出雲は、大きく分けて弥生時代後期と古墳時代以降の二つに分けることが出来ます。 弥生時代後期は、神庭荒神谷の銅剣、加茂岩倉の銅鐸も共に全国最多の量を誇っており、 両遺跡とも、隣接地域との関係の中で、巨大遺跡を残すほどの卓越した影響力が、この出雲地方の豪族にはあったのです。

 残念なことに神庭荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡は、古事記、日本書紀などの史料では、当時の時代環境を知ることは出来ない無言の遺跡と言ってもいいでしょう。    古墳時代以降の古代史については、在地豪族の活躍の様子や、神話、語り部などの伝承が、記紀や風土記に記録され残っています。  

  その古墳時代〜平安時代までの出雲の古代史は、他の地方の古代史とは大きな違いがあります。
その特色をあげると
 出雲の古代は記紀や風土記の神話や伝承を地方豪族の遺跡と比較しながらたどる事が出来る。
また、大和王権、歴代天皇家との間には縁戚関係や出雲神の神威が時の権力者に大きな影響を与えた歴史であること。

 出雲の古代史は、多くの研究者によって、ほぼその概要が明らかになりつつありますが、それは考古学を中心とした考証の仕方であって、昭和時代からの地名、氏姓、宗教などによる歴史解釈には、納得できない〔疑問点〕が多く含まれています。

 このページでは、 古事記、日本書紀の国譲り神話、 出雲国風土記の出雲神話は、実話を神話化され、伝承として残されたと仮定し, オオクニヌシの活躍した時代、出雲大社の創建、オオクニヌシの祭司者出雲国造家の足跡を探ることを中心に、未解決部分の解明をめざします。
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